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浦原縫製(うらはらほうせい)

別名: 浦原縫製工場

唐浦市内にあった作業服の縫製工場。生地と型紙を預かって縫う受託縫製を行い、最盛期には約150人が働いたが、2005年3月に閉鎖された。

概要

浦原縫製は、佐賀県の海沿いの城下町・唐浦市の市内にあった、作業服の縫製工場である。ジャケットやズボン、つなぎ服、防寒着などの作業着を、衣料メーカーや商社から生地と型紙を預かって縫い上げる受託縫製を主な仕事とした。最盛期には約150人が働き、その大半は市内と近隣の集落から通う女性だった。2005年3月に閉鎖された。

沿革

工場が操業を始めたのは1960年代の半ばとされる。当時、唐浦市のまわりでは、炭鉱や漁業に比べて、女性が勤められる安定した職場が少なかった。そこで、農家の主婦や漁家の娘が通える縫製工場として、小さな建屋にミシン数十台を並べて始まったという。

1970年代に入ると、建設や運輸、工場向けの作業服の需要が伸び、建屋を増築してミシンの台数を増やした。裁断、縫製、アイロン仕上げ、検品、梱包を一つの敷地で行う流れが整ったのは、このころである。1980年代には、ミシン約100台、裁断台数台を備える規模になり、九州北部の作業服の産地を支える下請け工場の一つとして知られた。

1990年代になると、海外で縫った安い製品が国内の売り場に並び始めた。発注元から求められる単価は下がり、小ロットで納期の短い注文が増えた。従業員の高齢化と、新しく入る人の減少も重なり、注文量は年々細っていった。2005年3月、発注元との取引の縮小を受けて、工場は閉鎖された。

事業と特徴

仕事の中心は、厚手の綿やポリエステル混紡の生地を使った作業服である。厚い生地を縫うには、針や糸の選び方と、縫い目の強さを保つ技術が欠かせない。ポケットの補強、ファスナーや面ファスナーの取り付け、反射材のテープを縫い付ける工程など、作業の安全にかかわる細かな縫製を引き受けていた。

工場は、工程ごとにラインを分ける流れ作業で動いていた。身頃、袖、襟、ポケットなどの部品を別々の列で縫い、最後に一本の列で組み合わせる。各ラインには工程の数だけミシンが並び、縫い終えた部品が次の人へ手渡されていく。検品の担当は、縫い目の飛びや糸のほつれ、寸法の狂いを一点ずつ確かめ、合格したものだけを梱包へ回した。

また、発注元ごとに型紙や仕様書が異なるため、新しい品番が入るたびに試作の一着を縫い、工程の順番と作業時間を決める打ち合わせが行われた。この段取りの確かさが、納期を守る工場としての評価につながっていた。

所在地と働く人々

工場は唐浦市内に建ち、通勤用の自転車やバイクの置き場が敷地の一角にあった。勤め人の多くは、市内の住宅地や、海沿い・山すその集落から通っていた。朝8時前に始業し、昼休みには敷地の中で弁当を広げる姿が見られたという。

勤続の長い人が多く、ミシンの音とアイロンの蒸気に包まれた作業場では、技術が先輩から後輩へ手を取って伝えられた。出産や子育てのあとに復帰する人もあり、女性が長く働き続けられる職場として、地域の暮らしを支えた。

地域とのかかわり

縫製工場は、城下町のまちの中で、農業や漁業と並ぶ現金収入の場として大きな役割を果たした。農繁期や漁の合間に働く人も多く、世帯の家計を補う収入源であった。工場の周辺には、糸やミシン針、部品を扱う小さな商店、ミシンの修理を請ける店などが集まり、仕事を通じた小さな取引の輪が生まれていた。

年に一度の慰安旅行や、忘年会などの行事は、従業員同士の交流の場でもあった。工場の閉鎖は、勤めていた人たちにとって暮らしの転機となり、市内では、同じ業種の工場が減っていく流れを象徴する出来事として語られた。

閉鎖のあと

閉鎖後、建屋と敷地は使われなくなり、設備は引き取られ、ミシンの多くは他の縫製業者へ譲られた。長く縫製に携わった人のなかには、介護や食品加工など別の仕事に移った人もいる。受託縫製で培われた縫う技術は、その後、個人での仕立てや補修の仕事に生かされている。

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