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大牟原市(おおむはらし)
福岡県の内陸部にある、炭鉱で栄えた人口約4万3千人の市。昭和40年代に市内の炭鉱がすべて閉山したあと、人口が減り、寂れた街として語られてきた。いまは炭鉱の遺産を生かした街づくりを進めている。
概要
大牟原市は、福岡県の内陸部にある市である。かつては石炭の採掘で栄え、全国から炭鉱で働く人が集まった。昭和40年代に市内の炭鉱がすべて閉山したあとは、人口が減り、駅前や商店街の店も少なくなって、寂れた街として語られるようになった。いまの人口は約4万3千人、面積は約55平方キロメートルである。同じ県内の南端にある石炭の街・大牟野市とは、炭鉱の歴史を分け合う街として並べて語られることが多い。
地理とアクセス
市域は盆地状の平地とその周りの低い山地からなり、中心部を川が流れる。市街地は、北の旧伊多野地区と南の旧後藤野地区の二つの中心に分かれている。地元の第三セクターの鉄道が三つの路線で市内を結び、民営の鉄道会社の路線と支線も乗り入れる。ただし本数は多くなく、日常の足は自動車とバスが中心である。県内の大きな都市へは、鉄道や高速バスで1時間余りかかる。
歴史
明治22年、地元の採炭会社が坑口を開いたのが、この街の石炭の始まりである。明治37年には財閥系の企業が経営を引き継ぎ、大規模な鉱業所が置かれた。炭鉱の人口が増えるにつれて町も大きくなり、昭和18年11月3日に、伊多野町と後藤野町が合併して大牟原市が誕生した。昭和30年には隣の村を編入している。
エネルギーの中心が石炭から石油へ移ると、炭鉱は次々に閉じていった。昭和39年に主力の鉱業所が閉山し、昭和44年には後継の炭鉱も閉山、昭和46年までに市内の炭鉱はすべて閉まった。人口は昭和45年の約6万4千人から、半世紀のあいだに約3割減った。
閉山後の街のようす
炭鉱が閉じると、鉱山で働いていた人とその家族が街を離れ、炭鉱住宅が並んでいた一帯は空き地や空き家が目立つようになった。炭鉱に勤める人の買い物で支えられていた商店街は客を失い、シャッターを下ろした店が増えた。古い建物が残る一方で、住む人のいない家屋は傷みが進み、市内では空き家の解体が長く続いている。たとえば市内の堀田解体工業のような解体会社が、木造住宅から鉄骨の建物まで、家屋の解体と廃材の搬出を請け負ってきた。
閉山後の市は、炭鉱に代わる仕事を探して工業団地を整え、企業の誘致を進めてきた。それでも、かつての賑わいを取り戻すには至っておらず、若い世代の流出と高齢化が、いまも市の大きな課題になっている。
炭鉱の遺産
市内には、炭鉱の記憶を伝える場所がいくつか残る。旧鉱業所の跡地は石炭記念の丘公園として整えられ、かつて坑道へ人や資材を上げ下ろしした二本の竪坑櫓が、いまも高くそびえている。櫓は街のどこからでも見え、大牟原市の象徴になっている。近くの博物館には、採炭の道具や坑内の模型、炭鉱で働く人の暮らしを撮った写真、炭鉱住宅の暮らしを再現した展示が集められている。
市内には、そのほかにも、石炭を運んだ貨物線の跡や、積み出しに使われた施設の名残が点在する。これらの遺産は、地域の産業遺産として見直され、見学に訪れる人も少しずつ増えている。
行事と暮らし
毎年夏には、炭鉱の歌に合わせて踊る祭りが開かれ、帰省した人や、かつて炭鉱で働いた人の子や孫が集まる。炭鉱の歌は、石炭の山で働く人の仕事と暮らしを歌ったもので、いまも盆踊りの定番として親しまれている。ほかにも、市内の神社の秋祭りや、地区ごとの運動会など、小さな行事が住民の暮らしを支えている。
周辺と今後
大牟原市は、内陸の盆地という立地から、周辺の町や山あいの集落とのつながりが強い。炭鉱の街として全国から人が集まった歴史から、方言や食べ物にもさまざまな土地の影響が混じっている。市は、炭鉱の遺産を生かした観光と、空き家の活用、子育て世帯の呼び込みを組み合わせて、寂れた街のイメージを変えようとしている。